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子供といっしょに鉄道を楽しもう!2女1男1妻の父親育児と鉄道大好きブログ


by koma-suke

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山田町 大槌町 再再掲です。

東日本から2年。山田・大槌編を再度掲載します。

山田町 大槌町 再再掲です。_a0090174_921556.jpg

駅方面に戻って閉伊川を渡り、山田線沿いに南下。宮古湾はザックリと深く切り込んでいます。湾の一番奥の堤防も表面のコンクリートは割れ、ところどころが崩壊していました。堤防の内側は深くえぐられ水たまりになっています。地図では宮古湾温泉マースと書かれているが、棒状の看板を残し建物は何もない。ここにもファミリーマートが復活営業しています。今朝は宮古市内で朝食をと思っていたが、宮古市内には「店」らしき店が見えなかったけれど、この防波堤のすぐ内側で営業している。コンビニは強い。
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山田町 大槌町 再再掲です。_a0090174_93551.jpgこの湾の一番奥にあるのが、津軽石駅です。構内はレールが残されているものの、多くの砂が流れ込んでいて、砕石は埋められつつありました。津波はこの辺が到達点らしく足元が砂だらけだが、建物の倒壊などは見られず、生活している気配があります。駅の北側は、線路が崖下を通っていたらしいが、レールだけでなく路盤までなくなっています。←写真は海側から津軽石構内を望む。











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この先、山田線も国道45線は山の中を通る。ひと山越えて出たところが、陸中山田である。海側の防波堤は崩されているが、かなり分別されて片づけられている。海から国道の両側にかけて町が広がっていたらしい。3階程度の鉄筋の建物がそのまま残っている。残された建物が多いので、町の感じは残っている。ナビによると右=内陸に入れば陸中山田駅になるはずだが、国道から外れると、はたっと目標になるものが見当たらない。奥にプレハブの建物が見える。どうやら商店らしいので、幟がはためいている方向に進むと、ぱったり道がなくなった。ナビではここが駅であることを示している。車から降りてみると、黄色線があり、ホームであった。
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構内は火災に襲われ、焼け焦げた樹木が残されていた。町は動き出そうと模索している様子があるのだが、駅だけは傷跡を残していた。波はホームの上をなめたように進んだようで、駅舎や、ホーム上屋など、立ち上がったものは何もなく、結果、ホームだけが残っていのだ。

山田町 大槌町 再再掲です。_a0090174_941589.jpg山田湾の反対側のもう一つの駅が織笠駅である。多少高くなっているのだが、やはり駅はなくなっていた。駅は南側の山越えに向け勾配を登る位置にあり、階段があったであろう斜面をよじ登りホームに立つと、周囲を見渡せる。北側はカーブをしつつ鉄橋があったようだ。ガータの桁だけが残り、盛り土の路盤がすべてなくなっている。この駅周辺は一面砂だらけである。
←右上の緑色が鋼鉄のガーター。背後の橋脚は三陸自動車道。








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織笠から山を越えて浪板海岸に出る。ここは陸中海岸では珍しい長い砂浜が続く風光明媚な海岸線らしいが、国道はかなり高い位置を通っており、砂浜を見ることが出来ない。線路はさらに髙いところを走っている。海岸の南端が、浪板海岸駅で、駅自体も高い場所(右上の黄色い柵。7Mぐらいか)にあるのだが、それほどの高さがあっても、やはり橋脚が流されていた。鉄道マニア的に地図を見ると、地図から高さを読み取ることが出来るのだが、陸中山田が町と同じレベルであろうことに対して、織笠・浪板海岸は高さがあると思っていたのだが、その高さを軽々と越えて波がやってきたことになる。もし仮にご当地不案内の私が旅行中のこの場所で「高い場所」に逃げるとすれば、これらの駅だったのではないか、と思うと恐ろしいことだ。
吉里吉里も有名な駅だ。海からなだらかな斜面が続いていく。この集落もかなり深い場所まで家がなく、基礎だけが残されてゆく。鉄筋造りの建物がないため、基礎だけが目立つ。

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トンネルを抜けると大槌である。北側の山から線路が見えた。まさに写真中央でレールが切れているところである。その向こうガレキ置き場と海がみえる。

短いトンネルを抜けると、大槌町町方地区である。

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ここは、大変なことであった。
なんといえばいいのだろう。こんなことってあるんだろうか。
まず目に入るのは、山田線のガーターが落ちている。町の中心にはうず高く土砂の山が積まれている。

田老とも、山田とも違う。町のすべてがなく、町の動きが感じられない。
この「広さ」「規模」にたいして、なんといえばいいのだろうか。
山田町 大槌町 再再掲です。_a0090174_954753.jpg片づけられた土地には海から運ばれたらしい岩が残されている。背後は県立大槌病院。冷静に考えれば、海から波が到達した距離が深いようだ。そして波の力が強いのかもしれない。海に面している広さ、湾の開いた方向、市街地の標高差、鉄筋作りと木造の割合…それらによって被害の状態が変わるのだろう…が。頭の中で理屈を持ち出して、理論でこの状況を整理しようと思うのだが、理屈を超えた衝撃であり、不条理であり。

大槌町は震災前人口約15000人死者802人行方不明者479人

テレビで見ている世界の狭さ。
テレビので見せられる世界の不正確さ。
今までの町に比べてひどい。私は動揺し、車を止めた。道路と歩道との境目もはっきりしない、砂埃の道路を、ダンプカーが走り抜けてゆく。そこでUターンした。いたるところで工事をし、警備員が誘導している。誘導を受けているうちに自然中心部に進んだ。

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大槌町役場。ここでやっと気が付いた。町の片づけは、木造のガレキが最初に片づけられているようだ。鉄筋の建物は処理が難しいためか、後回しになっている。それでも鉄筋1階の周囲は片づけられている。しかし、町役場・学校などの公共の建物の片づけは、最後の最後の後回しにされている。町民優先で役所(=自分たち)は最後という順序なのだろう。役場の中は津波当日のままらしい。ここでも亡くなられたがいらっしゃるであろう、中は覗けなった。

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海を背にし、左手に小高い土地が見える。城山である。
斜面に墓地が見える。近づくと墓石は倒れ、割れ、乱雑に、そのままの状態である。しかもブロックは茶褐色に変色し、かなりの火災が起きたことが推測される。この城山のふもとは津波によってガレキが流され寄せ集まったところで火災が起き、三日三晩の火災が起きた。ここが先日NHKの番組で見た、江岸寺である。この番組を涙涙でみた。







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一周忌の供養塔が立っている。合掌。失礼して、墓地の横の坂道を登らせていただく、するとこの町が、かなり広い平べったい土地であることがわかる。もちろん平べったいのは建物が全くないからそう見えるのであるが、田老などに比べ人が生活していた平地が広いということがわかる。写真上から見渡しパノラマです。



↓内陸方向
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↓海方向。海はかなり遠いということがお分かり頂けるだろうか。右端のプレハブ建物が、江岸寺仮本堂。この日も読経が聞こえていた。
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↓城山斜面の墓地。墓石は倒れたままである。
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山田町 大槌町 再再掲です。_a0090174_9113338.jpg読経中の見学は、ご迷惑。そそくさとカーナビ頼りに駅へ向かう。駅の気配が全くないので、ひたすらカーナビ画面を見てゆくが、「ここを右です」…まず指示される道がない。仕方がないので道かなあっと見える場所を走ると、踏切に出た。踏切と言っても遮断機があるわけでも継電箱があるわけでもない。道路面のコンクリートとその間だけのレールが残されているだけだ。写真は大槌駅方面を望む。背後は落ちていたガーター橋に続く。橋の取り付け斜面があるはずなのだが、一面平らである。




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駅に出たが、山田駅と同じようにホームしか残っていない。山田駅周辺にプレハブ商店が建っていたのに比べ、大槌にそのような営みの気配はない。対向式のホーム2面だけが残されていた。見渡す限りレールもない。
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↓駅前にはグランドピアノが3台廃棄されていた。背後の建物は大槌小学校。高い建物だが、真っ黒に焼け焦げている。
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大槌の被害は、今までの様子とは違う、規模が大きく、悲しい光景であった。田老とは違い海からちょっと離れている市街もすべて破壊されている。町の大きさの割に死者行方不明者が多い。

国道を南下し、、トンネルを抜けると、釜石市 鵜住居である。ここもレールも駅もない。駅前には3階建ての団地があるが、3階の部屋まですっかり破壊されている。周辺を見まわして一番高い建物だが、この屋上でも助からなかっただろうし、すっぽりに見込んだ光景を想像することが難しい。作業員が3階の部屋からガレキを外に投げ捨てる音が響いている。
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鵜住居駅も高いところにあるのだがホームの端っこのコンクリート1本だけを残して流失している。織笠駅と同じような作りなのだろう。釜石方面を望む、築堤途中からレールが残っている。













峠を越え両石駅。駅は今迄一番高い場所、山の中腹にあり、鉄橋も残されているが、小さな湾を守る防波堤は壊滅している。
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# by koma-suke | 2013-05-25 07:07 | 東日本大震災

妻沼のカメに会いに行く(再掲)

今回は極めて珍しく「バス小トリップ」です。
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高崎線快速で熊谷駅着。クモハ211-1001。今回の目的地の妻沼町は江戸時代には門前町として発達、また利根川の水運の拠点として栄えた町です。
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熊谷駅東口10:55発車するバイパス経由妻沼行きバスに乗り込んだ。このバス路線と同じ熊谷-妻沼町の間には、かつて東武鉄道熊谷線がありました。

1983年まで運転された熊谷線は、東武のどの線路にも接続していない非電化の盲腸線で、気動車ディーゼルカーが運転されていました。
もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期1943年(昭和18年)12月5日に開業しました。利根川対岸の群馬県太田市の中島飛行機(現・富士重工業)の資材輸送を目的として、熊谷駅 - 東武小泉線の西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として熊谷駅 - 妻沼駅間が開業しました。敷設免許は東小泉駅を起点にして熊谷駅に至るとなっている。西小泉の中途半端な線路の姿、また東武が運転していたというのも、へーそういうことかという沿革です。昭和58年に廃線。そこで運転されていたのが、カメ号ことキハ2000系である。もともと蒸気機関車の運転でしたが、あまりに速度が遅く「カメ」と呼ばれていました。気動車化されてキハ2000は「特急カメ」と呼ばれましたが、いつのまにか特急が取れて、ふたたびカメ号と呼ばれていました。ちなみに本当の廃線跡は、秩父鉄道上熊谷駅まではわずかにレールが残っているらしい。その後、高崎線を越え、「カメの道」という公園になっているそうです。そして線路跡は今でも東武鉄道の所有だとか。
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バスは ニュータウン前バス停に着いた。ここは東武が開発するニュータウンだったはずでしたが、結局、大規模開発はうまくいかず、妻沼町の人口が思うように増えず、これが熊谷線廃線の原因となりました。そのニュータウンバス停から徒歩5分で「妻沼展示館」に到着。建物裏側の庇を借りるように、クリーム色の車体が保存されていました。
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キハ2002見学。外見は当時の東武車両と同じようにクリーム1色。カメよりもカイコのようです。東急車輛製造でキハ2001-キハ2003の3両がつくられた。全長16.5m、片側2扉で、側窓上段Hゴム固定のバス窓。車内はセミクロスシートである。DMF13 (120PS/1,500rpm) 1基を搭載。当時大流行の湘南顔でバス窓です。
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車内で目立つのは、最前部の脅威のマニア席。ギリギリ前面展望だし運転士の手元も真横から丸見え。なんと素晴らしい!縁側でビールに枝豆気分で運転見学を楽しめるのである。
カメを堪能し、徒歩で、妻沼聖天山に向かう。途中、卯月花郵便局を局巡する。印はグライダーの里。5分程で聖天山の門前に着いた。

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↑実盛さん銅像。
聖天山の寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。

中世には忍城主の庇護を受けた。徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦10年(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。現在は国指定重文。平成15年から平成23年まで本殿の修復工事が行われた。総工費13億5000万円。9億6000万円は国・県・市の補助金。3億5000万円が信者の寄付だそうである。このたび、国宝に指定される運びになったそうである。
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そんなすごい建築を前に、まずは花より団子である。
境内の騎崎屋はさっぱりとした日本家屋のお店である。うどん蕎麦とかき氷が食べられる。熊谷では暑さの名所となったことを逆手に取って、「雪熊」かき氷キャンペーンをしています。市内いろんなお店で、それぞれ個性ある雪熊が提供されています。
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雪熊…は特別に熊っぽくはない。抹茶小豆400円は安い!味は普通~。かき氷は長瀞の阿佐美冷蔵に軍配があがった。確かに高いけど、あっちの方がうまい。
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はは~ん。でたな実盛じいさん。そうかここは実盛さんの領地だったんだな。そこで実盛うどんである。650円
大和芋を擦らずに実盛の白髪に見立て千切りにしているそうです。これは話を知らないと全く分からないうどんである。むむっと、ぼんやり観光しているだけでは、いけない。これは油断できないぞ。
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さて、参道に戻って門をくぐり、本殿の裏が見ものである。拝観料700円。これから国宝になったらもっと高くなるのかしらん?解説のボランティアの方の話を聞きながら彫刻を拝見する。
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極彩色の彫刻は派手で賑やかである。それでいて、唐子や猿のどかな風景でした。猿の表情が可愛らしく、伸び伸びしている。小日光と呼ばれるように、素晴らしい彫刻である。日光の陽明門はちょいと高いところで見にくいが、ここはすぐそこに見ることが出来る。たいへんお得な感じがするよ。

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猿は人間、鷲は聖天様。慢心して木から川に落ちた人間でも、信心を持っていれば救ってくれるのだそうだ。
物語・絵巻物を見るように、びっしりと彫刻があり、想像力をかきたてられて、面白い。小トリップにはお勧めの場所です。これからもっと暑くなったら、逆に(?)行ってみたい場所(・・・?)です! あ、体調にお気を付けになってくださいませ。

木々の生い茂る境内は、熊谷といえども風が涼しい。観光の方は熊谷駅方面に戻ってゆくが、同じ道を帰るのはつまらない。熊谷線を偲んで12:53発のバスで伊勢崎線太田駅に行く。

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利根川を越え太田駅到着。13:24の普通列車で久喜、東北線で帰宅しました。
# by koma-suke | 2013-04-21 07:48 | 鉄道

東日本大震災2年を前に、被災地「石巻編」を再掲載いたします。

東日本大震災2年を前に、被災地「石巻編」を再掲載いたします。
被災された方に心よりお見舞い申し上げます。

***********
東日本パス¥10000で発売されました。震災の影響で、旅行を取りやめ、また自粛することによって、経済が冷え込むことがないように、「みんなで旅行することで、被災地を支援しよう」という趣旨の切符です。JR東日本管内なら1日乗り放題、しかも新幹線にも乗れるという、乗り鉄には夢のような切符です。

さて、どこに行こうか?
しかし、心にかかるのはやはり、震災で亡くなられたり被災された方のこと。
東北の温泉地では被災者の方を受け入れ、同じ旅館でうきうき入浴というのもいかがか?
あちらから、こちらからいろいろなお話を伺いますと、いくら消費が被災地を助けるといっても、のんびり遊んでくる気分にもなりません。

また私自身、大変な災害に向き合って、世の中の無常と自分の無力に直面し、気分的にかなり滅入っているということに気が付きます。わが子と同じ年頃の小学生たちや幼稚園児が亡くなったニュースを聞いたりすると、我がことのように悲しくなります。帰宅難民すら体験せずに済んだ自分が悪いことをしているような、健康であることが申し訳ないような気分になるのです。「できる支援をしよう!」といわれましても、テントを持って泊りがけでボランティアに行くことも、ボランティアツアーにすら参加できず、支援金もほんのちょっとしか協力できません。何もできない自分が、情けなく申し訳なく感じるのです。

さて、震災3か月が過ぎ、この東日本パスが発売されたのを機会に、自分でも整理をする必要があるのでは?と感じました。テレビを見ることではなく、自身の目で見ることには違いがあるはず。何のお手伝いもできず「見物」にゆく行為が、非難される行為かもしれませんが、百聞は一見にしかずといいます。その言葉を頼りに出かけることにしました。
(鉄道話については、以後、別投稿いたします)

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石巻に着いたのは、13:53でした。石巻駅前は作業着の方が多く、地面はやはり大きくうねって、壊れています。この駅の周辺だけが、かろうじて活気があり商店やお土産屋さんが営業していました。結果的には「経済活動」しているのは、この駅周辺の僅かなお店とコンビニだけでした。

石巻を目的地としたのは、朝の育児タイム終了後の出発で、最大2時間半の滞在時間が稼げることでした。また日本製紙の工場があり、東北線~王子貨物線をゆく貨物列車の出発地としてなじみがあったためです。町を歩く頼りとして、局めぐをする時のように郵便局の地図を持って行きました。

駅前から旧北上川へ。
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駅にいちばん近い郵便局は石巻立町郵便局で、ここで局入金をし、東に向かって道なりに商店街を歩いてゆきます。アーケード通りの店という店は、すべて壊れています。シャッターがよれよれで飛び出しているのは軽傷で、たいていの店は、ガラスが割れ柱が折れ、家が傾いています。そして中は泥にまみれています。
この周辺は、地震の直接の被害が大きくその後、海水がやってきたようです。その地震の強さにも驚かされますが、3か月たっても、信号は傾き点灯していないままであることに驚きます。交差点では新潟県警の警察官が交通整理をしています。
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街中には材木・漁具といったガレキは、それほど目立たちません。通行の妨げになるような自動車、がれきは片づけられているようですが、家の庭や建物の隙間には、車が縦になって残されています。旧北上川まで到達、漫画記念館の中州には船が取り残されていました、対岸にもかなり大きな漁船が打ち上げられたままです。川沿いに南に行き、地図を頼りに中央一郵便局までやってきましたが、水没被災しており営業していませんでした。旧市役所では写真の洗浄作業が行われていました。思い出の品展示、避難所の中央公民館を、覗かないように眺めつつ市内の高台、日和山に登ります。

日和山西端から沿岸部へ
今回歩いた石巻市中心部(駅周辺から海岸までの地区)は、北は石巻駅、南は県道240号線、東は旧北上川、西は日本製紙工場となっています。この真ん中に日和山という、まさに山と言っていい標高と急こう配の高台があります。取りついて直ぐに、はあはあいうような急坂です。そのため少し上っただけで被害の気配は消えてしまいました。壊れた車も地震で崩れた家も見えません。地盤が固いようです。この山の頂上に石巻高校、裁判所などがあり、信号も点いているし、高校生がわいわい歩いていたりして、ごく日常的な様子がうかがえます。西側に山を越えると日本製紙工場です。貨物発着線ヤードは敷地の反対側でレールは見えません。工場内では重機が動いて作業をしています。山の裾の木々には、ビニールや木の枝が絡み付いています。県道を南へ向かい、工場の南端で道なりに東に向きます。

ここからが、本当の津波の被災地でした。
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テレビではわからないこと、その奥行。広さというか面積という表現ではなく、「ずっと向こうまで」なにもないというか、なくなっているのです。県道の南側、海に向かって、基礎だけになってしまった家と、鉄筋作りや比較的新しい家で辛うじて倒壊を免れた家がぽつぽつと見えます。その向こうには、山脈のように連なった自動車の壁、がれきの山が遥か向こうに見えます。その現実離れした光景に、衝撃を受けるのだけれど、呆気にとられてしまいます。テレビで津波の映像を見ると、無意識に「あー」とか「うわー」と言っていたのですが、それは劇場を見ているような感想であって、真実の現場を見てみると言葉がないというのが正直なところです。
ここでたくさんの命が失われた現場であるということは、現実であり、それを表現する言葉を持ち合わせていないという気分です。またどのような言葉でも、伝わらないし、わからないかもしれません。当然、石巻門脇郵便局は跡形もありません。
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目を転じて県道の北側の日和山に挟まれた、100M幅の地区も同じようにすべて破壊され、生活の様子は見えません。なかでも山の端は、火災が起きて黒焦げです。門脇小学校は黒くすすけて廃屋になっていました。ここにも子供たちがいたかと思うと、恐ろしいことです。
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テレビではわからないこと、その臭い。
駅前からずっと臭うのですが、やはり沿岸部はより、すごい臭いです。
強烈なクサヤのにおいと、潮溜まりの海水の臭いです。24時間この臭いは相当厳しい環境です。県道を歩いていると、ぽっこりと穴が開いていて、水が溜まっています。うかうかあるいていると落ちてしまいます。それが排水溝なのか、浄化槽なのか、地震で出来た穴なのかわかりませんが、緑色の海水が溜まっています。

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県道を西の日本製紙から、石巻市立病院まで歩く間、自宅があったのであろう場所を、何かを探す親子、道端に椅子を出して遠くを眺めている老夫婦。辛うじて倒壊を免れた家の片づけをしている方。しかし、そもそも圧倒的に人がいない。交通整理の警察官、がれきを積むダンプカー……すべてが「静か」です。テレビではわからないこと、その静けさ。
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お寺では墓石がすべて倒れ、その向こうに自動車が倒立しています。
町は3か月たって、やっと道が通れるようになったという段階のようです。生きることに関係のない場所は、そのまま手つかずです。「復旧」とか「復興」なんて言葉は程遠い。なにひとつとして復していない!現場の人はみんな頑張っている。ボランティアの方も精いっぱいなさっている。そのご努力を超える自然の破壊力ということになるのですが、3か月でこんなに片付いたというべきか、3か月でまだこれだけということなのか?それは何もできない私が言うことではないと思うけれど、これから長い長い時間がかかる作業であり、支援が必要であることは間違いありません。

日和山東端から石巻駅へ
市立病院から北に進み、日和山の影に入りますと、市街と同じように、建物は立っているが浸水の状態になります。病院などは1階は工事中で2階で診療しています。病院には人がいました。中央一郵便局まで戻ってきました。この辺で帰りの列車の時間が迫ってきて、慌てて大通りへ出て、奇跡的にやってきたタクシーを拾い、駅に戻りました。発車5分前でした。

この現場を見ると、津波が悪い!海が憎い!地震が恐ろしい!…という発想からは離れてしまって、今の政治はなんなのか?そこに矛先が向き、怒りを感じます。
与党も野党も、まずは被災地の事を考えたなら、不信任決議案で1日無駄に使うことはないし、やめるといった総理大臣が、その処遇に日にちを使うように、だらだらしている場合ではない。緊急に復興内閣を組閣して、与野党の相反する意見はお得意の棚上げにして、地震復旧の事だけを、半年、1年進めればいい。甚大被害の東北3県と福島第一原子力発電所にそれぞれ国の権限を持った人・役所を置き、現場に即した法律の改正、撤廃をし、お金を速やかに配布し、一日でも早く被災者を一時的であれ安住安心させるべきである。たぶん国会議員の方、いやすべての国民がわかっているはずなんだけど、目に見えた様子がない。すべて市町村単位で作業が行われていて、すぐに限界がある。

リーダーシップを持って、ぐいぐいと発案、実行してくれる代表者が見たい。自ずと国会議員になるのだろうけれど、その器の大きさが見たいのだ。例えば岩手の小澤さんは何をしているの?今こそ(すでに遅いが)立ち上がり、地元のため東北のために、その器の大きさを見せる時ではないのか?その個人の、いろいろな問題があっても、復興・救国の時限内閣として、首班になることは可能なのではないだろうか?

帰りの石巻線に乗ったら、高校生たちの下校列車であった。
石巻を出ると、瓦は落ちているものの比較的、普段通りの光景になる。高校生たちは、遠慮なく大きな声で話をし、ワイワイとしている。平時とは微妙に違うのだろうが、準日常というか、若い世代の元気な様子が見受けられて、救われた気分になった。
# by koma-suke | 2013-03-08 12:00 | 東日本大震災

東日本大震災2年を前に、山田・大槌編を再度掲載いたします。

東日本から2年。山田・大槌編を再度掲載します。

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駅方面に戻って閉伊川を渡り、山田線沿いに南下。宮古湾はザックリと深く切り込んでいます。湾の一番奥の堤防も表面のコンクリートは割れ、ところどころが崩壊していました。堤防の内側は深くえぐられ水たまりになっています。地図では宮古湾温泉マースと書かれているが、棒状の看板を残し建物は何もない。ここにもファミリーマートが復活営業しています。今朝は宮古市内で朝食をと思っていたが、宮古市内には「店」らしき店が見えなかったけれど、この防波堤のすぐ内側で営業している。コンビニは強い。
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東日本大震災2年を前に、山田・大槌編を再度掲載いたします。_a0090174_93551.jpgこの湾の一番奥にあるのが、津軽石駅です。構内はレールが残されているものの、多くの砂が流れ込んでいて、砕石は埋められつつありました。津波はこの辺が到達点らしく足元が砂だらけだが、建物の倒壊などは見られず、生活している気配があります。駅の北側は、線路が崖下を通っていたらしいが、レールだけでなく路盤までなくなっています。←写真は海側から津軽石構内を望む。











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この先、山田線も国道45線は山の中を通る。ひと山越えて出たところが、陸中山田である。海側の防波堤は崩されているが、かなり分別されて片づけられている。海から国道の両側にかけて町が広がっていたらしい。3階程度の鉄筋の建物がそのまま残っている。残された建物が多いので、町の感じは残っている。ナビによると右=内陸に入れば陸中山田駅になるはずだが、国道から外れると、はたっと目標になるものが見当たらない。奥にプレハブの建物が見える。どうやら商店らしいので、幟がはためいている方向に進むと、ぱったり道がなくなった。ナビではここが駅であることを示している。車から降りてみると、黄色線があり、ホームであった。
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構内は火災に襲われ、焼け焦げた樹木が残されていた。町は動き出そうと模索している様子があるのだが、駅だけは傷跡を残していた。波はホームの上をなめたように進んだようで、駅舎や、ホーム上屋など、立ち上がったものは何もなく、結果、ホームだけが残っていのだ。

東日本大震災2年を前に、山田・大槌編を再度掲載いたします。_a0090174_941589.jpg山田湾の反対側のもう一つの駅が織笠駅である。多少高くなっているのだが、やはり駅はなくなっていた。駅は南側の山越えに向け勾配を登る位置にあり、階段があったであろう斜面をよじ登りホームに立つと、周囲を見渡せる。北側はカーブをしつつ鉄橋があったようだ。ガータの桁だけが残り、盛り土の路盤がすべてなくなっている。この駅周辺は一面砂だらけである。
←右上の緑色が鋼鉄のガーター。背後の橋脚は三陸自動車道。








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織笠から山を越えて浪板海岸に出る。ここは陸中海岸では珍しい長い砂浜が続く風光明媚な海岸線らしいが、国道はかなり高い位置を通っており、砂浜を見ることが出来ない。線路はさらに髙いところを走っている。海岸の南端が、浪板海岸駅で、駅自体も高い場所(右上の黄色い柵。7Mぐらいか)にあるのだが、それほどの高さがあっても、やはり橋脚が流されていた。鉄道マニア的に地図を見ると、地図から高さを読み取ることが出来るのだが、陸中山田が町と同じレベルであろうことに対して、織笠・浪板海岸は高さがあると思っていたのだが、その高さを軽々と越えて波がやってきたことになる。もし仮にご当地不案内の私が旅行中のこの場所で「高い場所」に逃げるとすれば、これらの駅だったのではないか、と思うと恐ろしいことだ。
吉里吉里も有名な駅だ。海からなだらかな斜面が続いていく。この集落もかなり深い場所まで家がなく、基礎だけが残されてゆく。鉄筋造りの建物がないため、基礎だけが目立つ。

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トンネルを抜けると大槌である。北側の山から線路が見えた。まさに写真中央でレールが切れているところである。その向こうガレキ置き場と海がみえる。

短いトンネルを抜けると、大槌町町方地区である。

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ここは、大変なことであった。
なんといえばいいのだろう。こんなことってあるんだろうか。
まず目に入るのは、山田線のガーターが落ちている。町の中心にはうず高く土砂の山が積まれている。

田老とも、山田とも違う。町のすべてがなく、町の動きが感じられない。
この「広さ」「規模」にたいして、なんといえばいいのだろうか。
東日本大震災2年を前に、山田・大槌編を再度掲載いたします。_a0090174_954753.jpg片づけられた土地には海から運ばれたらしい岩が残されている。背後は県立大槌病院。冷静に考えれば、海から波が到達した距離が深いようだ。そして波の力が強いのかもしれない。海に面している広さ、湾の開いた方向、市街地の標高差、鉄筋作りと木造の割合…それらによって被害の状態が変わるのだろう…が。頭の中で理屈を持ち出して、理論でこの状況を整理しようと思うのだが、理屈を超えた衝撃であり、不条理であり。

大槌町は震災前人口約15000人死者802人行方不明者479人

テレビで見ている世界の狭さ。
テレビので見せられる世界の不正確さ。
今までの町に比べてひどい。私は動揺し、車を止めた。道路と歩道との境目もはっきりしない、砂埃の道路を、ダンプカーが走り抜けてゆく。そこでUターンした。いたるところで工事をし、警備員が誘導している。誘導を受けているうちに自然中心部に進んだ。

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大槌町役場。ここでやっと気が付いた。町の片づけは、木造のガレキが最初に片づけられているようだ。鉄筋の建物は処理が難しいためか、後回しになっている。それでも鉄筋1階の周囲は片づけられている。しかし、町役場・学校などの公共の建物の片づけは、最後の最後の後回しにされている。町民優先で役所(=自分たち)は最後という順序なのだろう。役場の中は津波当日のままらしい。ここでも亡くなられたがいらっしゃるであろう、中は覗けなった。

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海を背にし、左手に小高い土地が見える。城山である。
斜面に墓地が見える。近づくと墓石は倒れ、割れ、乱雑に、そのままの状態である。しかもブロックは茶褐色に変色し、かなりの火災が起きたことが推測される。この城山のふもとは津波によってガレキが流され寄せ集まったところで火災が起き、三日三晩の火災が起きた。ここが先日NHKの番組で見た、江岸寺である。この番組を涙涙でみた。







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一周忌の供養塔が立っている。合掌。失礼して、墓地の横の坂道を登らせていただく、するとこの町が、かなり広い平べったい土地であることがわかる。もちろん平べったいのは建物が全くないからそう見えるのであるが、田老などに比べ人が生活していた平地が広いということがわかる。写真上から見渡しパノラマです。



↓内陸方向
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↓海方向。海はかなり遠いということがお分かり頂けるだろうか。右端のプレハブ建物が、江岸寺仮本堂。この日も読経が聞こえていた。
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↓城山斜面の墓地。墓石は倒れたままである。
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東日本大震災2年を前に、山田・大槌編を再度掲載いたします。_a0090174_9113338.jpg読経中の見学は、ご迷惑。そそくさとカーナビ頼りに駅へ向かう。駅の気配が全くないので、ひたすらカーナビ画面を見てゆくが、「ここを右です」…まず指示される道がない。仕方がないので道かなあっと見える場所を走ると、踏切に出た。踏切と言っても遮断機があるわけでも継電箱があるわけでもない。道路面のコンクリートとその間だけのレールが残されているだけだ。写真は大槌駅方面を望む。背後は落ちていたガーター橋に続く。橋の取り付け斜面があるはずなのだが、一面平らである。




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駅に出たが、山田駅と同じようにホームしか残っていない。山田駅周辺にプレハブ商店が建っていたのに比べ、大槌にそのような営みの気配はない。対向式のホーム2面だけが残されていた。見渡す限りレールもない。
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↓駅前にはグランドピアノが3台廃棄されていた。背後の建物は大槌小学校。高い建物だが、真っ黒に焼け焦げている。
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大槌の被害は、今までの様子とは違う、規模が大きく、悲しい光景であった。田老とは違い海からちょっと離れている市街もすべて破壊されている。町の大きさの割に死者行方不明者が多い。

国道を南下し、、トンネルを抜けると、釜石市 鵜住居である。ここもレールも駅もない。駅前には3階建ての団地があるが、3階の部屋まですっかり破壊されている。周辺を見まわして一番高い建物だが、この屋上でも助からなかっただろうし、すっぽりに見込んだ光景を想像することが難しい。作業員が3階の部屋からガレキを外に投げ捨てる音が響いている。
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鵜住居駅も高いところにあるのだがホームの端っこのコンクリート1本だけを残して流失している。織笠駅と同じような作りなのだろう。釜石方面を望む、築堤途中からレールが残っている。













峠を越え両石駅。駅は今迄一番高い場所、山の中腹にあり、鉄橋も残されているが、小さな湾を守る防波堤は壊滅している。
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# by koma-suke | 2013-03-08 11:49 | 東日本大震災

200系追撃シリーズ①

注意!鉄道マニア向けの追跡記録です。
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軽井沢に行く朝。下りホームであさまを待っていると、上りホームに308Cが到着。唯一原色の緑帯車K47編成を目撃。気を付けていれば撮れたのだが、乗ることに集中してしまい失敗した。
この308Cは東京に着いた後、上野運転所で昼寝に入る運用なので、どこにも行かない。今はこれを追いかけていると軽井沢の169系が撮れなくなってしまうので、まずは下る。

「この間さよなら169系撮り鉄旅参照」

軽井沢15:00の530Eで帰京します。最初の予定では、高崎で後続の200系1328Cに乗り換えるつもりだったのですが、計画変更!高崎で降りずそのまま大宮まで乗って、K47を待ち構えます。
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1328CはK46

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上野で昼寝から目覚めたK47は東京から331Cとなって新潟に向かいます。
夕やみ迫るなか、新潟に向かうK47。新潟到着後は折り返し帰京し、さらに高崎へ向かってホーム停泊します。運転所に戻らずホームで夜を明かすということは、編成の差し替えがないので、次の日のK47の充当列車が自ずとわかるのです。
200系追撃シリーズ②へ続く
# by koma-suke | 2013-01-12 20:09 | 鉄道